二柱神社
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二柱神社について

1,000年に亘って
受け継がれてきた信仰


二柱神社は、良縁成就・開運招福・商売繁盛の神様と仰がれる伊邪那岐命、伊邪那美命、蛭児命の親子の神様が1,000年の永きに亘り、今日まで大切に守り伝えられてきました。

由緒

当社は万壽2年(1026年)に市名坂の修林壇(現在の七北田字東裏付近旧社殿地現存)に滋賀県の多賀大社より分霊され、当地にお祀りされました。その後、天正年間(1573年~)には地域豪族国分氏の荘園三十三ヶ村の内市名坂・七北田・北根・野村・上谷刈・古内・松森・鶴谷の8つの村の総鎮守として祀られるようになりました。

国分氏が滅亡してから伊達綱宗公の時代に、七北田・市名坂に大きな宿場町が開かれるようになると当社も、七北田川の付近に霊地を卜占し、寛文2年(1662年)4月に現在の場所に遷られました。また明治5年9月七北田村の村社となり村を挙げてのお祭りが行われ、神社境内地の整備等の事業を推し進める最中、昭和4年8月31日未明、原因不明の怪火により社殿全焼という悲劇に見舞われました。

現在の社殿は神明造で建設されており、満洲事変以降の極めて物資の確保が困難な時に役員・氏子の十余年に亘る努力のもと、昭和16年5月に造営されたものです。

令和6年(2024年)には当社の創祀1000年を記念して、兵庫県西宮市鎮座の西宮神社より蛭児命が勧請され遠く離れた仙台の地で御両親の神様と共にお過ごしいただいております。

御祭神

伊邪那岐命・伊邪那美命

日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。

生命の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まりました。




蛭児命

神代の昔、伊邪那岐伊邪那美二柱の大神が最初に御生みになられた御子。

日本書紀によると、三歳になるまで足が立たなかった不具の子であったとも云われています。伊邪那岐伊邪那美二柱の神は、吾が子をあわれと思いつつも、葦船に入れて茅渟の海へ流してしまわれたのです。その蛭児の神、葦船に乗せて流された蛭児の神が、再び海から出現されたのです。平安の御代に力強くよみがえった蛭児の大神、関西圏を中心に海に生業の道を求める人々はもとより、開けつつある街の人々の、絶大なる信仰を集めてゆくのです。